4ヶ月目、妻の月命日をすっかり忘れてしまっていた。
今日は、妻の4回目の月命日だったのだが、完全に頭から消えていた。
先月までは、月命日には花やお菓子を少し買ってきて供えていたのだが。
さっき、会社から帰って夕食を食べ終わった後に、ふと今日が妻の月命日であることを思い出した。
何も買ってこなかったので、冷蔵庫にあった貰い物の柿を供え、線香をあげて手を合わせた。
妻が亡くなって、まだ4ヶ月しか経っていないのに月命日を忘れるとは、少しずつ記憶が薄れかけている証拠か。
それとも私の頭が少しずつボケかけているせいか?
どんなに辛いことも、悲しいことも時間が癒してくれるというが、全くその通りである。
「いつまでも悲しんでなくていいんだよ」と優しく癒し、慰めてくれるのは時間だけである。
他に慰めてくれる人は誰もいない。ハエトリグモもいつの間にかいなくなった。
命日にお参りするというのは、仏教儀式なので、無宗教の私には関係ないと言えば関係ないのだが。
それでも、小さな祭壇(仏壇ではない)の中に鎮座している妻の若い頃の写真に毎朝お茶を供え、線香はあげている。
これは、私の朝のルーティーンになっているので、1日も欠かすことなく続けている。
「お父さん、な〜んにもしなかったあんたにしては、なかなか感心な心がけだよ」と妻は褒めてくれているかも知れない。
それとも、「いつもお茶だけ?たまには何か美味しいものないの?」と苦々しく思っているかも。
さらに、写真に向かって朝は「行ってきま~す」、帰宅した時は「ただいま~」と小声を出して言っている。隣近所に聞こえないように。
「行ってらっしゃ~い」「お帰り~」が聞こえないのは寂しいが、これも私のルーティーンになっている。
いつもやってることをしないのは、何となく気がかりになるものだ。多分、私が仕事を辞めるまでは続けることだろう。
今日のとこは、このブログにきれいな花の写真をアップ(お供え)することで勘弁してもらおう。
「冷たい旦那だね」と思わないでくれ、来月は絶対忘れないようにするから。
と言っても、保証はできかねる。